自分に祈る

朝から落ち着かず、

心中穏やかではなかった日。

 

身の回りを整えることで

落ち着かせようとするも、

罪悪感や名前のつかない気持ちが出てきて、

なかなか心が上がってこない。

 

それで、どうしたい?

と自分に問うも、

答えが出てこなかった。

 

ぐるぐる、悶々としながら

どうしたらいいかわからず、

祈った。

 

こんなことは初めてだった。

 

 

主の祈りの一節、

 

我らに罪を犯すものを

我らが赦すごとく、

我らの罪をも赦したまえ。

 

いつまでも悶々とし、

険しい顔を続けている場合ではないので、

こころの中でこの言葉を唱えたら、

すっきりはしなくとも、

なんとか笑えるようには

なってきた。

 

この部分だけを

掃除をしながら、

草刈りをしながら、

ことあるごとに繰り返す。

 

何年も伝え続けて

もらっていたにも関わらず、

失礼極まりない話だが

こんな風にやったことがなかった。

 

中途半端で、ぬるい。

そんな学びの姿勢だったことを

思い知らされた。

 

 

 

この出来事を通して、

自分は何を経験したかったのか。

どんな自分を創造する機会と 

したかったのか。

 

一日考えて、

たどり着いた答えは

祈り。

 

 

幼く、浅はかで、傲慢、

謙虚さの足りない

罪深い自分であることへの

自覚が薄れ、無知になる。

 

不安、恐れに駆り立てられ、

やること、自分のことばかりに気が向くと、

そんな自分になっていく。

 

それなら、どうするか。

どう在りたいか。

 

 

過ちを犯す、罪深い自分であることを

認め、ゆるす。

 

ゆるされていることに

感謝する。

 

正しい祈りとは、求めたりすがったりすることではなく、感謝である。〜

感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。

 

どんな祈りもかなえられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから。

 

 

自分の罪を正直に認め、

謝り、ゆるすことができるように

祈る自分

 

を創りたかったんだ。

ずっと。

 

ここまで人にも自分にも

痛い思いをさせないと

気がつけなかったほど、

難儀な自分。

 

痛い思いを引き受けてくれた人には

感謝しかない。

 

罪悪感があるから、

罪悪感を知っているから、

身を引き締めようと思うし、

痛みに寄り添い、

慈しむこともできると思った。

この尊い経験を糧にしていく。

 

 

この気持ちを大切に胸に抱いて、

私がわたしの声に

耳を傾けられるように、

祈って、眠ります。

 

ありがとう。

 

 

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